いかにして日本語教師をやめてプログラミングを愛するようになったか
自己紹介記事を書いていなかったので、ここらでまとめてみようかと思います。
おんせん県で育つ
典型的なオタク少女時代を過ごす。
小学校時代は頭の中がスーパーファミコンとゲームボーイと「なかよし」と「ボンボン」で出来ていた。
「りぼん」と「コロコロ」でないあたりが、その後の人生を暗示している。
中学で新機動戦記ガンダムWに(ちょっと遅れて)ハマり、若干いやかなり道を踏み外す。しかしBLにはハマりきれず、周囲の腐女子とは距離を置く。
パソコンにハマる
世はまさにIT革命である。「学校でパソコンしても怒られない」という安易な理由で、商業高校を受験。
ここで簿記と出会う。商業高校では簿記が必修なのである。入学式でバカでかい電卓を買わされ「やべえ…。高校ミスった…」と思いながらも、これがまさかのクリーンヒット。プログラミング(しかもCOBOL)と合わせ、生涯で初めて「勉強するのが楽しい」「授業が待ち遠しい」といった感覚を味わう。
とここでイベント発生。そう、2002年日韓ワールドカップである。
そして韓国へ
我がおんせん県はこの時すでにうすらハゲの毒牙にかかっており、まんまとサッカーにハマる。
同時にテレビでは連日のように韓国ヨイショ報道。多感な女子高生が太刀打ちできるわけもなく、やっぱりまんまと韓国にハマる。
当然のように韓国への交換留学制度のある大学へ滑り込み、渡韓。この頃、既にプログラミングの事は結構忘れている。実際、大学の授業でC言語を始めるが、何が何やらわからず挫折している。
日本語教師へ
いざ韓国についたら全く話せず、自信喪失。しかし夫との出会いもあり、日本語学科の学生たちと飲み歩くうちに、韓国語よりも日本語の方に関心が向く。
帰国後は就職活動にも失敗し、フルタイムでアルバイトをしながら日本語教育能力検定試験に合格。
再度渡韓し、韓国語能力試験6級に合格。日本語教師の職を求めるも、時既に遅し。…そう、東日本大震災の到来である。
挫折
もともと日本語教師を志したのは、日本人として韓国で一番やりやすい仕事がそれだったから。という邪な理由もあるけれど、やはり一番は「日本大好き!」という、学習者のキラキラしたまなざしだった。
それが実際にカネをとって教え始めてみると、
ビザなしで不法就労させようとする学校。
韓国人に日本名を強制する、時代錯誤な教育方針。
死んだ魚のような目でやっとこさ教室に這ってくるお客様。
製菓学校に留学を希望していたけれど、夫と義実家の「放射能で子供が産めなくなる」という大反対に遭い、泣く泣く諦めた若奥様。
給料遅配、授業すっぽかしは当たり前。&補講でスケジュールはむちゃくちゃ。
そして何よりも、挙動不審なオタク女子に「講師」という仕事はキツかった。
出るわ出るわ、理想と現実…。
もう、日本語教師は憧れの仕事ではなくなっていた。
転職活動
日本語教師を辞めて一般企業に向けて就活を開始したが、外国人のできる仕事は限られている。資格もない。
韓国人の夫ですら仕事がないのである。求人サイトを漁ってはため息をつく日々。
そんな時、なぜかふと思い出したことがあった。「韓国人と結婚した外国人は、ネイルアートやバリスタ講座が無料で受けられるのよ」…習い事で知り合った日本人奥様の情報だった。
おぼろげな記憶を頼りに、韓国語で検索してみた。あった。「취업성공패키지」。慌てて夫に見せた。
夫は怪訝な表情で、「これは障害者とか、ものすごく貧乏な人がやるものだよ。一般人には関係ないの」「そんなことない!ここを見て」。「多文化女性」。つまり韓国人と結婚した外国人は、収入要件が免除と、しっかり書いてあった。
職業訓練
就業成功パッケージとは、就職セミナー+就職相談+職業訓練がセットになったもので、手当も受けられる。
しかしちょうどその頃、夫に十分な収入がある専業主婦でありながら、ネイルアートやバリスタ課程で優雅に習い事をする奥様が増え、問題視されていた。(その後ほんとに規制された)
仕事がなくて困っていた私は、その状況を逆手にとったわけではないが、必死で窮状を訴えた。
翻訳の仕事がしたくても、編集デザインができないのでダメと断られる。なので、例えばPhotoshopなどの講座はどうだろうか。相談員は少し考えて、首を横に振った。「ここで受けられるPhotoshopの講座は、本当に簡単なものです。正直に言って、就職につながるとは考えづらい。あなたは日本ではコンピュータの勉強をしてきたそうですね。もっと難しいことに挑戦してみてはどうですか」
ちょっと驚いた。どうやら、民間委託の甲斐あって、相談員もかなり真剣に考えてくれているらしい。範囲を広げて探してみると、Androidアプリ開発の講座が目に止まった。
Java…。やってみたいとは思っていた。でも、オブジェクト指向とやらの意味がわからず、避けていた。
それからしばらくして、私は訓練校の門を叩いていた。なぜか、苦手意識はなかった。最初に留学したときから私はこう思っている。私はストレートでは勝てない。豪速球は投げられない。ならば変化球だ。打たれるかもしれないが、変な球を投げてやる。
入学時の面接で、担任となる先生に「특이하네!(変わってるね!)」と言われた時、どっと何かが噴き出す感覚があった。それがアドレナリンなのか脳内麻薬なのかは知らないが、とりあえずつかみはオッケーというやつである。
幼い頃から変な子供と言われ続けてきた。「カワッチョン」。大分弁で変わっている、という意味だ。誰かがそれを言う度に私の心は崩れてきたし、今でも思い出すたびに苦しくなるが、これからは一つ一つ立て直そうと思う。
この国では日本語を話す人間なんて珍しくない。でも、きっとこのブログを見る人が見たら「あっ、アイツか」とわかってしまうだろう。その場合はどうかご容赦ください。
前置きが長くなったけど
このブログでは、私の韓国での会社員生活について
国際結婚、日韓夫婦について、あるいは韓国人の夫について
韓国で拾った二匹の猫について
日本語教師時代の思い出について
日本語教育、韓国語、ロシア語、中国語、あるいはその他の外国語学習について
アニメ、ゲーム、漫画について
外食と自炊、おいしいお店について
エンジニアに不可欠な健康、サプリなどの個人輸入について
そしてもちろん、プログラミングについて
特にswift、Objective-C、Xcodeを使ったiOS開発について
ごちゃごちゃメモしていこうとおもいます!よろしく!
ちなみに、タイトル「日本語教師、エンジニアになる。」とどっちにしようか迷ったんだけど、プログラマーの方がなんとなく響きがカッコいいからプログラマーにしました。
というわけで…。「なぜ愛するようになったか」というよりは、「元々好きだった道に帰ってきた」というわけでした。無理してやる仕事って、うまくいかないものです。